アクセス増加・発掘件数なき日本考古学: Japanene Archaeology (2017年5月27日)

日本考古学協会に参加して,感じたこと.地理学者は,たぶん私だけ.

キーワードにすると,下記の通り.

また,アクセス増加は??問題と,官報名前掲載余波でしょうね.守秘義務がなくなった案件ですよね.

 

 

 

・職業運動としての考古学(徒)養成の成功と.その後の?

・ねつ造問題

・研究レベル

・発掘件数に減少と,担い手不足

・アウトリーチ

・運動でない,考古学

・報告書と同人雑誌と起用と,雑誌論文と.

・報道記事とサイエンス

・歴史学としての「考古学」

 

 

小生は,一番最後のところが重要だと思います.

 

自然科学と考古学;業績追加:Oral Presentation: (2015年9月9日)

昨日の発表を業績欄追記しました(下記添付)

 

自然科学と考古学の関係性は,師匠世代からの議論されてきた場面の復興,というような印象でした.

これは,ブランド化している「日本考古学」という領域から考えてゆかないといけない場面,であることを痛感しました.

翻って考えると,ねつ造を生んだ「日本考古学」の研究レベルまで議論する必要性も感じます.ロマンなど..ふわふわとした議論ではなく,サイエンスとしての考古学は,やはり必要です.

職業運動として一見成功した「日本考古学」ですが,の「が」以降の議論はいづれ展開したいと思います.

福岡:プログラム

遺跡報道と、ねつ造問題(連載ボツ原稿)

以下の単文は、職場の新聞連載用に出した原稿ですが、「ふさわしくない」という内部の担当者の判断でボツになったものです(別になんとも思っていないのですが、耳の痛いことこと耳をかたむける必要はあるでしょう)。別原稿が海外調査中に掲載されましたが、出てきません。・・・・・

あの毎日新聞によってスクープされた日の情景は今でも鮮明に覚えています。このような事件に展開したのは、1)許認可行政、2)閉鎖的体質、なによりも、3)日本考古学の研究レベルが重要な要素だと思います。

「周辺」に位置する私にとっても大きな出来事でしたが、あれからの10年の変化を評価する時期になってきていると感じています。

 

(ここから)

遺跡の報道と、ねつ造問題

宮本 真二

 

小さな時から考古学や遺跡大好き少年でしたが、繰り返される遺跡の報道に最近、違和感を感じています。

それは、「最古や最大、大発見」といった報道です。たとえば、大規模な集落遺跡や、最古と考えられる土器の発見といった報道で、その発見は歴史ロマンをかき立てられ、学術的に貴重であることは理解でき、驚きであったとしても、ほとんどが一過性にすぎない話題だと思います。

もちろん、多くの人々が興味をもてる話題性がある発見について報道する役目があることは理解できますが、そもそも、遺跡の調査で、すぐに大発見と評価できるのでしょうか?。研究の大半の行為は、先行研究の論文を読み込んだり、関連した資料を探ることによって、「新しさ」を見出す行為です。このように、繰り返される「大発見」のニュースに接するたびに、私は報道に踊らされた遺跡と、報道から抜け落ちた遺跡との格差に対して、違和感を感じずにはおられないのです。

たとえば、古墳から見つかった豪華な副葬品の発見報道では、天下国家論のロマンあふれる研究者のコメントであふれ、当時の社会構造が語られますが、現代社会に生きる私たちにとって、生活レベルでの問題関心から話題にできる報道は限りなく限定的だと言えます。つまり、遺跡を現在と切り離された過去の存在として扱われることに対しての違和感でもあります。

また、約10年前に発覚した「旧石器遺跡ねつ造事件」と報道との関係も考えずにはいられません。このねつ造問題が形成された原因のひとつとして、私たち報道の受け手ばかりでなく、報道する側も「最古」という言説に躍らされ、地道な研究のプロセスをなおざりにした事実があったはずです。ねつ造を企てた個人の問題よりも、報道を通じて、即効性ある話題づくりに踊らされてきた日本の考古学を取り巻く体制にこそ問題があったのだと思います。しかし、それから十年たっても、いまだ同じように繰り替えされる報道に強い危機感さえ覚えます。

遺跡を通じて「歴史に学ぶ」ためにも、一過性の話題に惑わされず、地道な研究に対して焦点をあてた「骨太な報道」が、今、求められていると思います。

(琵琶湖博物館・主任学芸員)