文章で自己表現することの「喜び」と「伝える」こと

いつの間にか,年,歳!?を越した.

このような,ネット環境が整備されるまでの遍歴(人とヒトのつながりを維持するツールという意味)は,下記の通り.

・10代の高校生時代

新聞のロカール面や,全国版投稿面,さらには深夜ラジオでのハガキ投稿での応募で,こずかい稼ぎステージ.

(その要因として,極度な管理教育への反動で,「教師」などへの反発.

・大学学部時代(古都)

お恥ずかしい思春期特有の行動で,交換日記世代での自己表現

(その要因として,根本的にお金もなく,電話という手段さえ,お金との算段だった)

・院生時代(首都郊外)

お恥ずかしい思春期世代の延長で,携帯電話さえなく,また海外に出ても連絡手段さえ,レターの世代で自己表現

(その要因として,根本的に買いたい本は「目をつむって」買ったが,食費などには一切投資せず,先生や先輩に群がった).

・就職時代(かつての古都)

上記の行動パターンは抜けきらない.

(その典型的行動パターンとして,3000円以上の本は,コピーするか,ネットで古本で探すかの算段に30分は今でも悩む.)

・・・というような遍歴はあるが,「文章を書くことは,10代から好きだった」.それ以前に,小学生時代から,考古学に関する本は,親にねだって専門書を買ってもらっていたし,その本は,研究室の奥に大切にしまってあり,1年に一度くらいはなにげなく見る.

そのねだっている情景(片田舎の書店の片隅で誰にも買われないような明日香村の遺跡紹介の一冊)は,鮮明だ.

また,日記の習慣は,恥ずかしい世代においては,交換日記だったが,一時期は同世代の研究者(院生を含む)は,今日の出来事や読んだ本の感想や,書き始めたロンブンの交換を毎晩,その日の決めごととして交換していた.

いまも,弁当箱(PC)で,メモをするが,あえて,手書きも必要だと感じている.

行間の味わいや,文章の乱れ,乱文なども,考える時間を確保する上で,大事だと思う.

したがって,ネットで安易に手に入れる(手に入る)情報の「ウサンクササ」は今でも感じるし,実際そうだと感じている.

研究レベルでは,「役に立つ」「即効性」が強調されるが,【科学の厚み】,【文化としての科学】のオモシロサを伝えていかないといけない世代(トシ)だとも感じている.

ただし,日本という国では,定式化されたものへの信仰のようなもの(国民性という表現は適当ではないが)があり,【学ぶ楽しさ】の機会が少なすぎたのだとも思う.

いい意味で「成熟した社会」のためには,「学び,自己が変遷,変化する喜び」を伝えてゆく役割も,私たち,職業研究者の役割だと,感じ入っている.

たまに見るTVで,やはり,「イチロー」「IHIRO」はかっこいい!

プロである.

彼の発言は,染み入る.

【オチなし】

プロなので,原稿の締め切りは守ろう!!(自己照射

無駄論とプロ論(小説新潮創刊800号記念特大号より)

まだ,「知恵熱」がおさまらないようだ.

・・・と言っても,消化しきれない事象を自己のなかで整理しょうとして,それが整理しきれない「脳みそ」というジレンマだろう.

しょうがないと思う.

ただ,帰国後の,事務作業の中でも,書類を整理しながら(休日だが),考えることが多く,充実感はある.(と思いたいし,信じたい).

・・・ということが,問題で,「家人」に強く批判される(苦笑).

ただし,この静寂につつまれた「個人空間」は,大事だと思っている.

徹夜後の,朝日を望む爽快感!?も?(苦笑).

【沢木耕太郎と井上揚水の対談,小説新潮,800号】

(帰国時の機内で熟読していた新聞の広告で発見)

は,おもしろい.

「面白がること」,「プロ論」,「オーディエンス論」

この「文体が,ここちよい」のだ.性格に表現すれば,対談なので,文体ではないが,「らしさ」に安心する.

【バーボンの香が立ち込める】のが,私にとっての沢木だ.

また,揚水の詞も味わいたくなり,CDに・・・・・.

・・・と悶々としていたら,

「朝刊が届いた」.

(脱力感).

結論

オチばかり,考えていたらよくないなあ,と,下の写真のように,「山となった書籍」に戸惑う.戸惑うどころか,苦痛の域だ.

書籍の堆積(山)