中日新聞:滋賀版:2月11日掲載記事(2月24日)

ミャンマーに出かける前のバタバタの状態時に掲載されて記事(校正前原稿)です.

11月末にバングラデシュ南部のハティア島で調査を行っている時の夕刻,ゲストハウスの屋外で,蚊と格闘しながら日本に送った原稿で,思い出深いものです.(通信速度との格闘も)

※またこれまでの一連の連載は,Webでも公開されるようです(イラストがなかなかよいです).

 

(ここから)

 

国家と博物館の「自由」

 

宮本 真二

 

これまで海外調査の期間中、何度も博物館を訪れました。そのなかで、アフリカの国々の場合、1960年代以降に多くの国家が独立を成し遂げています。しかし、その過程で紛争を繰り返してきた国々が多く、「国家」を説明する場は、博物館です。

いまこの原稿をバングラデシュという国で書いています。この国も、1971年に独立した若い国家で、国立博物館で独立戦争の実態を詳しく説明し、国家の存在意義を強調しています。

ここまで述べてきまして、考えたいのが博物館の役割です。これまで私が訪れてきた途上国の国々では、「国家の説明」や、「国の存在意義」を表現し、活動する拠点として博物館が大きな影響を持っています。一方、国際学会の合間に訪れた米国の博物館は、市民の自然保護や環境保全運動の拠点になっており、多くの市民はボランティアで活動し、その拠点になっています。

この違いは明確です。一方が強く国や行政の庇護を受けながらも表現や活動が制限され、他方は国の支援をうけず、市民や企業の寄付のもとに運営し、その活動に制限はありません。

バングラデシュの友人の学芸員と議論していて、バングラデシュでは国の政治的な意図や政策によって、展示や活動が制限されるが、日本では?と質問されました。もちろん、「ない」と中立を意識していても、博物館の運営費の大半を税金に依存している体制では、大きな影響を受けているでしょう。

博物館活動では、活動の「自由」が保障されなければ魅力的な活動はできないでしょう。博物館が「自由」であるために、今、その運営システムさえも再検討する時期が琵琶湖博物館も含めて、日本の博物館全体に到来していると強く感じています。

そのためには、どういった博物館像を利用者が描けるかが、今後の博物館の命運を握っているといっても過言ではありません。

「博物館は、赤字でも、なくてはならない存在かどうか」を、今、日常生活の中で考えていただきたいと思います。

(主任学芸員)

中日新聞記事

6月25日の中日新聞(滋賀総合版)に連載記事が載ったようですので、下記に、改変前の原稿をアップします。

(ここより)

中日新聞【湖岸より】

遺跡と「災害」

宮本 真二

考古学の遺跡発掘調査の報道では、土器などの「最古の発見」といった情報が大半です。しかし、私は遺跡の発掘現場で地形や地質を調べ、「なぜ、この土地にヒトが住んできたのか?」という疑問で遺跡と接しています。

調査中、「なぜ、こんな場所に遺跡があるんだ?」という場面にも何度も遭遇します。例えば地下水位が高く、水があふれ出てくるような場所です。当然、当時と今では、社会情勢も違いますので、簡単ではありませんが、「ここに住む理由」があったはずです。

今回の大地震の報道の中で、過去の津波災害が以前から分かっていたとの報道をお聞きになったこともあると思います。実は、滋賀県内の遺跡でも、このような「過去の災害」痕跡が見つかっています。遺跡発掘調査では、今回の被害でも問題となっています「液状化」の痕跡が見つかることが数多くあります。つまり、この発掘現場の過去には、地震によって土地が大きく揺れた事実を遺跡が物語っているのです。液状化以外にも、「洪水」の痕跡として砂がたまった地層や、大規模な洪水によって、集落自体が廃絶したと想定される遺跡もたくさん見てきました。

阪神・淡路大震災後、ある研究者は、一般に「関西は地震がこない安全な場所だ」ということを「信じられて」いたことに、強い衝撃を受けたと言っておられます。つまり、研究では、過去の活断層や液状化の実態が明らかとなっていたのに、「いつ大地震が発生してもおかしくなかった」という事実が、なおざりにされていたことへの衝撃です。

遺跡の報道では、冒頭のような情報が注目されますが、実は、遺跡が語りかける「都合の悪い情報」にこそ、過去からのヒントが秘められているのです。

今回の震災は、研究者は事実を正確に分かりやすく説明する義務を負い、また研究成果を活用する方々は、過去の事実に謙虚に、「都合のよい情報」には、懐疑的に接する必要性を物語っています。

私自身、このことを肝に銘じています。

(主任学芸員)