ReaD & Researchmapの更新(2012年5月19日)

リンクしているReaD & Researchmapの自己のページのを更新(半分現実逃避・・・).

 

私はこういう研究者集団を対象としたWebは,1)ブラックスボックス化(密室化)した研究者

のイメージを開示2)見えにくい基礎科学の成果の形成プロセスや成果そのものの開示という

姿勢に強く賛同できる.

 

科学や学問という「行い」に対する社会からの信頼を得る行為や手段としてWebというツールは,大事で,

説明する義務もある.

 

個人でできることには,限度はあるが,こういう個人の営みが,結果として次世代につながってゆくのだと,

本厄になって感じている.

 

[付記]

また,誰に見られているのかについても,情報発信者からもうかがい知ることが可能だということも・・・・

とぎれなき日常

・・と書けば、「貧乏暇なし」。ということ。

ここ数カ月、いつも締め切りに追われて、格闘する日々。

年度末から年度初めにかけて、1)職場の各種事務処理、2)科研などの各種事務処理、3)編著本の編集や査読、事務連絡、4)新聞記事原稿、5)分担本の執筆・校正、6)一般向け短文原稿執筆修正、7)3)の自己原稿二本で、締め切りのない原稿を創ろうと意気込んでいたら、次の原稿依頼。

で、ちょっと考えたら、ここ数年の動き。一昨年は、国内学会で6件ほど発表やコーディネート)、昨年は海外の学会やワークショップで8回くらい発表で、落ち着く暇がなく、今年は発表より書くことを主体にしようと思っていたら、案の定そうなったが、今度は「デッドライン」の輪廻。

・・・とおもったら、昨年の海外調査時には、3500mをこえるヒマラヤのテントのなかで校正していたり、ブラマプトラ川の船上から原稿の校正を送っていたことも思い出した。

国内の研究会や研究の打合せで、国内出張にでかけると弁当箱(ノートPC)が当たり前になり、またネット端末も持参するようになり、どこでも仕事ができる。逆にいうと原稿を書くは、待ち時間などの喫茶店、本を読んだり、原稿の構成を考えるのは、食事時や移動中の電車やバスのなかが、集中できて、よい。

今日は、休日だが、自宅で原稿を書くことはもう当たり前になったし、先週末の古都への出張も、待ち時間にある程度の難しい問題について、原稿の作業はできた。

こういった行為は私に限ったことではない。共同研究者も海外調査時のトランジットのネットカフェで徹夜で一本の原稿を仕上げていることはママあるし、「甘えたこと抜かしたらアカン」と、自分自身、こころしているが、データをじっくりこねくりまわした論文を書くことに非常に飢えている、という感じがする。

家人には、家に仕事持ち帰って不機嫌な顔になるな!と、いつも指摘されるが、私自身最近は、このようにオンとオフを使い分ける行為そのものが自己へのストレスになると「開き直って」、「追い出し」をくらわない程度に家庭の作業もすすめる。

原稿を書くことはもちろん「自分に向き合う行為」で、精神的に「しんどい」行為だが、書きたい、いや、表現したいことがあり、その立場にいることを考えたら、甘えたことをプロとして慎みたいと肝に銘じている(たい)。

職業研究者として作品として原稿を生み出すことは、義務でもあり、喜びでもある。なにより、書くことによって、次の展開をさまざまに思考する。

・・とブログに書き留めることも、私にとっては一連の大事な行為。

Himalayan Book Deposits at Itanagal, Arunachal Pladesh, INDIA. Photo by Dr. Naoji OKUYAMA・

写真は、高野山大学・奥山直司さん(密教の専門家)ブログ「コンタクト・ゾーン亜細亜」http://okuyama08.blog120.fc2.com/

より転載。

もう2年前以上の奥山さんらとインド北東部、アルナーチャル・プラデシュ州の調査の一コマ。