自然科学と考古学;業績追加:Oral Presentation: (2015年9月9日)

昨日の発表を業績欄追記しました(下記添付)

 

自然科学と考古学の関係性は,師匠世代からの議論されてきた場面の復興,というような印象でした.

これは,ブランド化している「日本考古学」という領域から考えてゆかないといけない場面,であることを痛感しました.

翻って考えると,ねつ造を生んだ「日本考古学」の研究レベルまで議論する必要性も感じます.ロマンなど..ふわふわとした議論ではなく,サイエンスとしての考古学は,やはり必要です.

職業運動として一見成功した「日本考古学」ですが,の「が」以降の議論はいづれ展開したいと思います.

福岡:プログラム

Oumi, Shiga and Lake Biwa: 【補足】「記憶」としての近江(2014年1月29日)

Minami Kusatsu, Kusatsu, Shiga Prefecture. Jan. / 2014. Photo by Dr. Shinji MIYAMOTO

Minami Kusatsu, Kusatsu, Shiga Prefecture. Jan. / 2014. Photo by Dr. Shinji MIYAMOTO

 毎年恒例の滋賀県立大学「自然地理学」の集中講義で近江へ.

琵琶湖博物館に勤務していた頃は,年始の寒い時期に行っており,その寒さゆえに,

昨年度は初秋に行った.

しかし,今年は事情で,冬にもどした.

 

瀬戸内生活が二年目となると,近江,とくに湖北の冬は寒く感じた.(具体的には,日本海側の冬)

この期間に合わせて,滋賀時代の懐かしい友人に逢い,その道中の近江の様々な景観は,

昨年は感じなかったことだが,「懐かしい」ということと,「めずらしい」ものに自己の中で変化していた.

 

つまり,一年を経過することによって,近江は記憶された時代になりつつあることを痛感した旅であった.

近江の魅力や潜在力を感じ取ることもでき,研究の対象として冷静に観察することもできた.

つまり,フィールド・サイエンス一般にそうだが,「地元」を研究対象化することは,利点もあるが,そうでない

側面もあるということだ.

 

 

写真では確認できないが,比叡の稜線は,とても美しい.瀬戸内も景観も美しいが,この景観は近江ならではで,

今後が楽しみでもる.

「ひこにゃん」の本場で集中講義

毎年恒例の,年始明け,「自然地理学」の大学集中講義.

毎年,感じるが,「まじめ」だなあ,というとだ.

それは,決して否定的な意味ではなく.私自身が,「若手」の感性を信頼して,期待していることの裏返しの表現だ.

ただし,「勉強」と「研究」.もっと展開すると,「学び」は,まったく違うことを,早く認識してほしい,と老婆心ながら,思う.

なぜなら,【大学での「学び」】は,義務教育(これは,親に責任があるということ)ではなく,自己責任に世界にあることだ.

したがって,時間の使い方も,自己責任という「ルール」のなかで,時間を紡ぎ出してほしいと思う.

私が,師匠(=先生)とよべる(よばしていただける)方は,みな,共通して若手に「あかるい」(先生)ばかりだった.

「つなぐ」ことを毎年感じ入る.【ひこにゃん】の集中講義だ.

追伸

いかんせん,【芸風】はまだまだだと,自己反省の期間でもある.

・・・・・・

でも,学生さんと接していて,【自分が学ばせて頂いている】という,「育児」の心境や【感謝の本心】もある.

ただし,まったくに近くくらい「大学のジュギョウを「ブッチ」していたことにやりがいをみいだしていた世代として,立場が逆転した「キモチ」は,いまでも「とまどい」なのである.

・・・

つまり,講義の意味や,作法さえ,大学によりつかない世代として,困惑なのだ.

何していたかといわれれば,「海外にいっていた」としか,答えようがない,「自己史」なので,

「こっまっています」(笑).