already or so long a time, Facebook open?:Facebook(2014年5月13日)

強制的に始めたわけではないが,「開店」しています.

ただし,①携帯電話は嫌い,②インターネットも嫌い,③アナログ好き.なので,備忘録と化しているような?

 

ただし,研究のプロセスや,職業研究者の実態をオープンにすることは,以前から重視してきことでもあり,それなりの投資を効果を得てきたので,その延長線上という認識だ.しかし,まだこの公式webとfacebookの連動させる技術はまだないので,個々に独立して運用してゆく予定である.

 

しかし,元来,独りがすきなので,友達を多くしようとの努力はしないが,①「知らなかった情報」を容易に認識できること,②プロセスをオープンにできるツールとして,とても利便性が高いことは事実だろう.

 

この写真のように「美しくない写真」がでてきます,と.......

10259699_1399780126969506_7440461046603043082_a

intenet discussions その一

深夜の「思索」はろくでもないが,あえて,【趣味】として.

 

このごろ,というか,ここ数年.ネット環境の利便性を享受しているが,「携帯電話では,メールを打ちたくない.

 

・・・を考え(妄想し)て.

 

1.「携帯電話」論

2.「携帯メール」論

3.「SMS」論

 

に,現段階では説明要素として区分できよう.

 

ここで,まずは,1.

基本的に電話は嫌い.時間を強制的に搾取される.したがって,小生の行動原理を理解していただいている方しかなく,小生にかかってくる電話は,ごくごく少数.

基本的に,サイレント・モード・あの呼び出し電子音は,いまだに慣れないので,たぶん,自分には合っていないのだと思う.

 

2.への展開.

上記の1のような状態なので,基本的に「打たない」.打っても家族への【了解】のみ.

ここが,重要.

 

....なぜ,携帯でメール(今は,iphone4だが)を「打ちたくない」と思うのは,【言葉・レトリックが消費されるから】

・・だと,自己分析.

つまり,コトバの【重み】が,消費される,と考えているからだろう.

もちろん,その制度で,コミュニティが構築される過程は,途上国で見ているので,利便性などは理解している.

 

・・・が,「軽さ」には,たいへん違和感を覚えるし,コトバは大事.

なぜなら,日本語ができないと,外国語はできない.

(説明はいるが,日本語での自己表現方法を理解しないと,外国語へは,展開できないだろう.)

 

最後の3は,上記二点と関連し,正直

 

「この更新時間があったら,論文を読みたい」.

・・・というのが,真実だろう.

 

【オチ】

 

...と,自己納得の段階(みそぎ?)は終了した?.

 

要は,フィールドの迫力を無視できない「感性」の必要性だろう.

独り,孤独とTwitter and Face book論

ルブランでの調査終盤での一コマ

いろいろと,なんだか,忙しい.

が,それは,まあ言ってもしょうがない.

 

・・・ということで,表題に戻ろう.

 

最近,ネット環境の整備で,SNS(ソーシャルネットワークサービス)というのが注目されていることは,世間ズレしている私にとっても,理解できる.

 

しかしだ,と思う.

 

ネットに頼った人間関係の構築は,「薄い」ことは,真実だろう.反論として,それが「契機」として深さが構築されると指摘されようが,私は,そのようには解釈しない.

 

なぜなら,人に実際に会うことは,ネット以上の情報量と,「空気」をもたらす.したがって,人間は,独りでは生きてゆけないと,展開できる.

 

つまり,タダで得られる,ネットで得られるような「ゴミのような情報」(=雑学的知識)は,【自己満足】や【自己完結】のものであって,【自己照射】へと展開しないのだ.

(誤解を,あえて恐れず表現するのだが,研究を生業にして,文章を生み出す立場の者として,このことは,あえて強く表現しないといけないと思う).

 

【閑話休題】

 

海外調査で,お世話になっている現地の研究者や学生さんからは,Face Book やTwitterのお誘いが何度も,日本で注目される前から届いていた.

 

しかし,良く考えてほしい.

 

いま,私が感銘を受けている一冊は,今から,100年以上のフランスの歴史学者のレトリックを,紙媒体,それも古本での希少本である.この古本は希少本なので,これまでの所有者の『赤』も印象深い.

 

その「力」は,世代以上に,世界を超える「事実」かもしれない,と.

 

さらに,展開すると,それは「歴史」というもに向き合う行為そのものであると思う.歴史に学ぶ姿勢でもあるだろう.

 

もっと,強く表現すると「ペンの力」だが,月並みなので,これ以上ここでは展開しない.

 

・・・・・

 

「孤独に向き合う【勇気】を,手短な「ネット」で,まぎらわしている」,としか,今の,ネット依存社会にたいして,感じている.

 

研究する「行為」は,自己修養という表現があるように,自己に向き合う行為を恐れているのかもしれないと・・・・・.

 

ネットは,なくても,人間の知的生産活動は,じゅうぶん可能で,研究史はそれを物語っている.

・・・と,思う.