
ルブランでの調査終盤での一コマ
いろいろと,なんだか,忙しい.
が,それは,まあ言ってもしょうがない.
・・・ということで,表題に戻ろう.
最近,ネット環境の整備で,SNS(ソーシャルネットワークサービス)というのが注目されていることは,世間ズレしている私にとっても,理解できる.
しかしだ,と思う.
ネットに頼った人間関係の構築は,「薄い」ことは,真実だろう.反論として,それが「契機」として深さが構築されると指摘されようが,私は,そのようには解釈しない.
なぜなら,人に実際に会うことは,ネット以上の情報量と,「空気」をもたらす.したがって,人間は,独りでは生きてゆけないと,展開できる.
つまり,タダで得られる,ネットで得られるような「ゴミのような情報」(=雑学的知識)は,【自己満足】や【自己完結】のものであって,【自己照射】へと展開しないのだ.
(誤解を,あえて恐れず表現するのだが,研究を生業にして,文章を生み出す立場の者として,このことは,あえて強く表現しないといけないと思う).
【閑話休題】
海外調査で,お世話になっている現地の研究者や学生さんからは,Face Book やTwitterのお誘いが何度も,日本で注目される前から届いていた.
しかし,良く考えてほしい.
いま,私が感銘を受けている一冊は,今から,100年以上のフランスの歴史学者のレトリックを,紙媒体,それも古本での希少本である.この古本は希少本なので,これまでの所有者の『赤』も印象深い.
その「力」は,世代以上に,世界を超える「事実」かもしれない,と.
さらに,展開すると,それは「歴史」というもに向き合う行為そのものであると思う.歴史に学ぶ姿勢でもあるだろう.
もっと,強く表現すると「ペンの力」だが,月並みなので,これ以上ここでは展開しない.
・・・・・
「孤独に向き合う【勇気】を,手短な「ネット」で,まぎらわしている」,としか,今の,ネット依存社会にたいして,感じている.
研究する「行為」は,自己修養という表現があるように,自己に向き合う行為を恐れているのかもしれないと・・・・・.
ネットは,なくても,人間の知的生産活動は,じゅうぶん可能で,研究史はそれを物語っている.
・・・と,思う.