立場(立脚点)の主張と年齢

どうも刺激の強い日々を送って,働かない脳が活性化しているようだ.

メールでの若手研究者(私もじゅうぶん若いと思っているが),とのやり取りで,上記の表題を思いついた.

某,首都圏の公立大学院に在籍している時,某先生は,新入性(院生;入院式)で,以下のような挨拶をされたことが思い浮かんだ.


「研究への憧れと,好きになるのは違うよ」.「君たちの,今は,憧れだろうが,「好きになること」の意味がわかるか?」・・・と.

また,某,先生は,(これは,活字になっっている有名な一節だが).

「研究対象が恋人だったとしてもやって(継続)いけるか?」


自己に照射しよう.


「好きだろう」,「結果として」継続しているのだから.「思いこみの強さが武器」だとも指摘できる.


ただ,「好きなこと」(自分に合っていると信じあえる対象)に【出逢う】のは,なかなか難しい時代とも感じ,若い人たち(20代)の振る舞いをみて感じている.ただし,優秀だし,よく勉強しているのは事実(すむなくとも,当時のワタシより).


月並みだが,【役に立つ研究】こそ重要だ,のような主張を繰り返す言説は,自己へこのコトバを照射してほしいとほんとうに思う.ただし,とうぜん,対極にある【役に立たない研究】を実践しているもの(当方)も,甘えは許されない.


要は,「緊張感」の継続性だろうか.フィールドワーカーにとって.


表題にもどろう.

「立場性」.を主張する時期は必ずやってくる(ふつうに模索していたら.また,研究という「行為」自体が,「超」個人的であることを理解しているモノだったら,であるが・・・・


「自己修養」という先達の言説もある.


模索することが,たぶん,たのしいと感じ始めることが,「好きになる」ということだと,今の私は返答するだとう.





(オチなし)..

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