どんな対象でも継続するのは緊張感が必要である.
どのような職業でも遊びでもいいと思う.
「たのしく」感じるまでは,一定の修業期間が必要だろう.
この修行の期間は,作法を学ぶ期間なのかもしれないし,もちろんマニュアル化できない.またマニュアルで表現できるような陳腐なものでもないだろう.
出典は忘却したが,ある楽器職人を養成する徒弟制度の文章を読んで,感銘を受けた記憶が蘇ってきた.
「表現」するということ.
東京の郊外でビンボウ院生時代をおくっていたアパートには,芸術を専攻する他大学の院生が階下にいた.毎夜,製作の音(鉄の彫刻)がした.
苦情のためドンドンすると,それをきっかけとして仲良くなり,研究とゲイジュツの共通性を認識できるような飲み友達になった.(バイク好きだったというのもあるが).
彼も今,若手何とか賞をもらったとか,個展をひらいたとかの案内を,忘れたころによこしてくる.
それは会わなくても「刺激」になる.
かれも修行の期間だったが,「変人」だった.
でも,海外調査中にバイクを貸していたら,ナンバープレートはなくすし,技術を活かして勝手に改造するのには閉口した.
彼の指摘するところの「ゲイジュツ」だったのだが・・・・