旅先の食事

もともと食べ物には執着がなく,いまでもそうだ.

具体的には,「空腹がみたされればそれでよい」という感覚.
旅先でもそうである.いかに食生活の出費を抑えて,書籍や地図などの現地でしか入手困難なものに,限られた資金を投入しようと画策する.衛生状態というのも,じゅうぶん気をつけているが,旅の最初はおなかの調子が悪くなるのも,【通過儀礼】としてパタン化している.

そういう意味で,そこに住む人々がおいしそうに食べるものを食べたい衝動が抑えきれない,という意味では,執着があるのだろう.
でも,値段が一番の価値基準であることにブレはない.
大学院の博士課程1年のときに,私費(といっても奨学金)で,豪州に調査にいった.超格安オープンチケットで,現地にいる友人とキャンピングで,滞在も超格安だった.とうぜん,風呂など無縁の生活で,帰国前の友人宅のバスルームは,ひどい状態になった.
また,その後,の一週間程度のグアムトランジットでは,お金がないので,泳いでばかりいた.(すごい,チケットだった)

よって,いまでも味覚感覚に乏しく,家人に強く批判を受ける.
閑話休題

写真は,カルカッタ(コルカタ)で,お茶を製作中.誇り高い表情がいい味出しています.

思索と妄想@INDIA

写真は,カルカッタ(現コルカタ)市内で見られる沐浴である.

10年前以上,初めてのインドでは,ガンジスの沐浴を見たので,東インドで,それもカルカッタでぜひ見たいと思っていた.

インドという国は,日本人の評価は二分されるようだ.固定的なイメージでとらえると,好きか,嫌いかという評価が個人にとっては重要である.フィールド・ワーカーにとっては,「合うか,合わないか」とも表現される.

わたしにとっては,旅で歩くことは,すべて新鮮に映るし,食べ物も執着がないので,上記の評価は適切ではない.

なにが言いたいかといえば,インドはインドである.(表現できる適切なコトバが・・・)


「豊穣」と稚拙な表現で,日記を書いたのは,これも10年前以上のトルコという国だったが,そうでもないのがインド.

だまされるのも作法・・・・・そう受け入れてしまう自分に苦笑する.

あるくと見えてくることがたくさんある.


そういう,時間を日本でも持ちたい・・・と思いつつ,雨天を二輪で爆走した.


雨のライディング

梅雨の時期は,バイク乗りにはよろしくない,と一般的には指摘される.

実は,私にとってはそうでもない.もしろん,カッパを着る面倒さや,蒸し暑さは閉口する.

しかし,

乗り方を変える楽しみがある.

「お尻の・・・・・を絞めて」というのが,教科書的な表現.

でも,それも気圧は日々ごとの違う原動機に合わせて乗るのがツウの味わい方.

もう,オタクの領域だ.



研究と全く違うが,この時間は結構重要なのである.

追伸
写真は,バングラデシュの早朝の朝市の一場面.父親への尊敬のまなざしと,子供のプロ意識は驚嘆である.

ムシ暑い

暑さが本格的になってきた.
インド北東部の蒸し暑さや,半乾燥地域のナミビアの暑さとも違う,うっとうしい日々.

それで日常もうっとうしくならないように,自己規制しながらである.

でももう今年も半分終わる.

【こなす】ということは,すきな行為でも,コトバでもないが,そういう日々もある.

そうしないように,充実させないとと思う.
すべては,自分次第であると,追いつめよう.

パソコンとワタシ

長い学生時代は,マジメにお金がなかった.
バブル末期に学部学生時代を送ったというのに.

まず,【お金という野心】があれば,文学部など選択しない.

パソコンである.
院生時代も含めて,パソコンはのどが手が出るほど欲しかった.この世代なので,卒業論文はワープロだが,MacのClassicが師事している先生の研究所にあったので,その簡易さとレーザープリンターの美しさに「感動」した.

・・で,個人でも欲しかったが,結果として一万円札が10枚以上蓄積することなく,断念した.
その反動で,就職してすぐ,36回ローンでMacを購入した.京都の電気街まで買いに行ったが,「うれしかった」.
まだ,自宅のどこかに存在するだろう.

・・という意味で,インターネットも出始めの時期に院生時代をすごしたので,こういういまの環境も半信半疑である.
アナログ的に紙媒体の活字をめくる感触を,こよなく愛しているので,どうも【うさんくさい】感覚はたぶん一生ぬぐいきれないだろう.

どう考えても,ランボーの詩をネット画面で味わう気にはなれないのである.
オッサンと一蹴されれば,それまでだが,アナログとしての行為は,よりたいせつな作業過程になってくると感じている.

ただしである.

しかし,ビンボウの経験は,3000円以上の本だったら,コピーしようとする衝動を抑えるのにいまでも苦労するのである.

追伸
写真は2005年初秋といっても夏の台湾南部での大衆食堂で,食事を待ちながら,フィールド・ノートで残金を思案している場面.

最悪の運勢

文字中毒としては,朝刊は【中毒一日】のスタートボタンとなる.

某M新聞を愛読している.
運勢は「最悪・最低」との記述だったので,梅雨のバイク通勤時も注意していた.

日中は,・・・・・・・・・・なりそうなので敢えて記述しない.
・・・が積極的に解釈しようとする自分が心でいることが,余裕がある証拠.

その間においても,原稿は忘れたことはなにのだが...

あ~研究したい!
と,思う自分は,いい状態だろう.

夜になっても,雨は続く.
雨中のバイクも,乗り方が変わって楽しいのだが,シールドが曇り,速度を落とすと,アオルヤカラがうっとうしい.

・・・と,「最悪」にはならなかった(と思いたい)が,人の生き方は勉強になった.

フィールドのなかの関係性

使い古されたことだが,「現場で学ぶこと」の大切さは指摘されてきた.
すこし,「事件は現場・・・・・」という台詞があったが・・・・そうかもしれない.

なぜ,現場=フィールドにこだわるのかといえば,現場には自己のブレを修正させられる刺激がある.もちろん,現場の一部の減少だけを「うまく,切り取って」表現する(できる)人もいる.

しかし,そう単純ではない.

「なんでもみてやろう」(すこし古いなあ)の心意気で,歩いていると,見方の変化にも,自己で驚く.(妄想だが).

そういう繰り返しが,なかなか楽しい.


たとえば,自転車の目線と,歩きの速度,バイクの速度などなどで,日常でも発見はいろいろできる.

歩くのが楽しくないと思ったときが,自分が【錆び付いた時】と思うのだろう.
だから,いまは何でも楽しんで,そして楽しめる感性を維持していきたい.

追伸
写真は,バングラデシュでの屋敷地の形成履歴調査の一場面.

原稿を創る

学会発表行脚が終了したら,いくつかの原稿デッドライン浮上.で,不健康な生活継続.

文章を作るためのマニュアル本はこれまでも,今も沢山あるが,あまり役にたったためしがない.

元国立極地研究所の所長の「最後はムナツキハッチョウ・・・・・」が,励みでもある.

・・・と現実逃避.
(アアア・・・自分のオバカ加減が・・・)

追伸1
写真は今年4月の韓国の桜.(このころは,まだ雪がちらついていた)

追伸2
すこしはマジメな情報を.
数年前から行っている論文を創るための研究会の案内ブログをリンクしました.

暑く熱く

金曜日は,終始処理に終始する一日が習慣化してきたが,後ろ向きでもない.

・・・と,思考する一日ではないという意味である.その時間と余裕はない.
だれのせいでもないのだし,自分のせいかもしれないが,しょうもない議論モドキには付き合っている時間はない.

夏の予定が決まってきた.

一緒に考え,歩き,生活しという濃密な時間を共有できる超個性的なフィールド・ワーカーの皆さんと,地域研究のあり方の議論は刺激的である.当然職業研究者として「結果」はシビアだが,そのシビアな世界で生きている人々との会話は緊張感があって心地よい.(みなさんそれぞれ,個性的ですが,よい生き方をされていると見習うことが多い).
一緒に仕事をさせていただく幸せもある.この年代でできること,すべきことを自覚しなすることが自分なりに耳学問で理解できつつある.

・・・と学んでいる.

学ぶということはたいへん幸せである.また,批判してくださる方々の存在は感謝である.

・・・・と妄想しつつ,子供の誕生日を祝った.

結論

「この子の年齢の蓄積と,同時並行し自分は成長しているのか!?と自答した」

熱く誠実に生きようと再確認した.

アツさと中心?正統?王道?

京都は暑い.

・・というか,夏である.

マージナル.サイエンスの意義について,学部学生時代に議論したことを思い出していた.そう思うのは,その領域の中心と自覚し,主張している人が,21世紀になっても存在するからである.

なにが中心であるかなど,明確に根拠ある議論ができる人はいないだろう.

...と周辺や境界に意義を感じる自分は思うのである.主題はそこに転がっていると思う.

と【中心や正統を主張する研究者とは仕事はできない.】
(中心や正統っていったい何? 答えられないと思うけど・・・)