研究業績の評価

ウメサオ・タダオ展以来、学生時代以来の梅棹忠夫への関心が再度高まったことで、彼の業績にあたっている。

そのようななか、

梅棹忠夫(1989):研究業績の評価について.民博通信,46,10ー20頁.

を読んだ。

当時は、まだ大学も独立法人化される前で、研究者の業績評価の「ひょ」もでてこない世であったであろうが、今、読んでも斬新である。(ちなみに、私の学部入学時(高校卒業年)が刊行年)

評価基準のおいては当然のように賛否はあると思うが、全体からは【研究者の矜持】が感じられる。

 

・・・・再読すべき人と組織は多いだろうと、感じている。

道程

 は好きな時間。
 とくに、国内では地方への旅は心が躍る。

 ・・・と書けば、美しいが、実際の道程は、普段読破できない論文や、本を抱えたり、原稿の構成や、ドラフトの見直す時間として貴重で、結果として荷物は重たくなる。

 ・・・と考えて、いま、中国地方に出張中だが、20年前に同じ地に立っていたが、当時はあまりある時間をどう過ごすか、を身につけようとしていたのかも、と一変した景観をみて感じた。

 時間を消費しようとする行為よりも、時間に「のっかかった」時間の過ごし方も、と考えている。

 なにより、自己満足としての備忘録化したブログの活用は好ましくないと。また、いつも弁当箱(ノートPC)持参の旅も、なんだかなあ・・・と、反省。

終わりなき、「つなぐ」

 自分の名前、または、自分が生み出した文章など日常のなかでは、顧みることは、まずない。

 しかし、ネットで自己の名前とPDFで検索すると、私自身が知らない原稿がいつの間にかダウンロードできるようになっていて、少々、とまどう。

 このようななか、いくつか作業を行ってリンク(つなぐ)をはったが、既に「抜きづり」「別刷」が手元にないもを確認する場としては、このような媒体は便利である。

 未だに、本の作業は継続しているが、夏の海外調査予定、さらにはその準備があるので、早くなんとかしないといけない。。。と思うが、私の原稿ではないので、之ばかりは、「がんばってください」と神頼みの心境。

 私の心の梅雨空も、晴れて欲しい。。。という日々。

研究業績のリンク張り

いくつか小生の業績にかんする問い合わせがメールで来るので、PDFで公開されているものに関して、研究業績からリンクをはる作業を開始しました。

まずは、下記からで、写真などもあわせて順次作業を行います。

ただし、過去の作品は、私にとっての記憶から「忘却したい過去に」もなっており、自己の拙論に向き合う作業は、・・・・な気持ちになります

また、アナログ旧世代としては、文献は「紙で読みたい」ので、自己の意志と背反する行為でもあります。

 

宮本 真二・内田 晴夫・安藤 和雄・ムハマッド・セリム(2009)洪水の環境史—バングラデシュ中央部,ジャムナ川中流域における地形環境変遷と屋敷地の形成過程—.京都歴史災害研究,10,27-34.

関係性、再構築、統合、さらには「融合」を【編む】

気分は、梅雨空と同じように晴れない日々が、春先から継続中。

・・というのも、いろいろな原稿が「堆積」しているからで、昨晩は、夢のなかで、原稿の催促の文面をPCで考えている自己の姿があった(泣)。

 

・・・というのも、個別の事象に基づいた、自己完結型の論文ならある程度の定式があるが、今の作業は【編む】ことで、個別事象の精査よりも、編者の意図を理解してもらうための、統一性、整合性、そしてその理解に腐心している。

 

その中で、「地理学」という学の領域の研究史を省察する必要が出てくるが、ここでは、「地域研究」(あくまでフィールドという現場を重視した研究)の枠で、思索するが、定式がないことに、戸惑い、とときにはいらだちさえも感じている。

つまりは、総合科学としての地理学と教科書的に指摘されつつも、「お題目」として看過されてきた事実を目の当たりにすると、・・・・・・・・・・・・・・・(悲観的)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・というキモチになる。

しかし、魅力ある領域として、他領域や、社会に対してその存在意義を提示してゆくためには、表題にような抽象度が高い、フレームワークの議論も積極的に展開しなくてはいけないという自覚をもっている。

 

・・・というような、不惑でなく、より、惑いつつある日々。

 

その中でも、研究の「厚み」を実感し、驚嘆している自分も感じている。

 

 

本が迫る

好きなこと。1)本に囲まれること。2)本を読むこと、の優先順位は高い。

したがって、意識外に書籍の堆積が進展し、空間を圧迫する(される)。

旅において日常的に持参する一冊は昔からあるが、日常において持参する一冊はない。しかし、本がないと「落ち着かない」。よって、地理的な情報をもたいない場所で時間をつぶす必要があるときは、本屋が一番「落ち着く」空間であり、なにかの活字が帯同することになる。

ただし、読みたいと思って買った本は、必要があって読み込まないといけない活字に追い立てられ、いつの間にか、山を構成してしまう。この山となった本も、意思がもちてと通じると、「迫ってくる」のような気にもなる。

そういう状況で、机に向かっている、が・・・・・。

 

Field-Note, 1990-1991

写真は、20歳のころ京都郊外の埋蔵文化財の発掘現場で使っていたフィールドノート。この遺跡現場はたいへん想い出深く、フィールドノートの表紙にこびりついた泥も想いがあり、自宅の机に置いて、時たま眺めている。

大学の授業にはほとんど出なかったが、遺跡というフィールドで、いろいろな方に学ばせてもらった。いまでも、ほとんどやっていることは変わらない。

折り合い

Bhutan Mineral Water

ある編著本の序章を精力的な活動で知られる地理学者と共同でまとめている.

 

・・・と記述すれば,研究が進展している,と誤解されるが,研究史を紐解いて行くと,そこには,ヒマラヤのような「高み」,いや「厚み」に圧倒される.

集まった原稿を読み込んでゆくうちに,全体としての整合性を,どのように形作ってゆくのかという配慮が求められ,読者を意識しつつ,少ない引き出しを出したり,戻したりの作業を繰り返している.

換言すれば,研究史の整理のため,代表的な作品を読み込む必要があり,「行ったり,来たり」の迷路のような状況.

・・・のように,どこでどう「折り合い」をつけるのかを意識しながら,格闘している.

ただし,勉強にはなるが,圧倒されることに起因する「疲弊」を感じる.

山に登ったときのような「爽快感」は全くないが,校正段階の,「喜び」を妄想しながら,という段階.

 

写真は,お金のかからない趣味である調査地で出会ったミネラル・ウォターのラベル集め.誰も共感してくれないが,地域性がにじみ出ていて,地理屋として,たいへん「おもしろい」.