「怒り」と落胆か?

今日は,某古都での国際ワークショップ.

予想はしていたが「緊張感なき発表と議論」(しょうがない部分もありますが)で,【怒り】以外のなにものでもなかった.

予想はしていたが,「ほんまに,これでいいんかい!」と叫びたくなうのを抑制し,懇親会も辞退(参加すると,大いに批判する自分がわかっている)し,早々に帰宅した.ただ,相当のストレスがたまった一日.

ただ,その過程(電車のなかやバスの中)で読んだ一冊は,本当に,緊張感ある時代の歴史叙述を,平易な文脈で表現されていた一冊で,集中して読破できたことが,収穫だった.また,ほんとうに緊張感なき発表時間中に,あえて次の学会発表のための勉強と,段取りを思考できたことが,よかった.



・・・・.「なめるな,研究を!」.「科学100年の「厚み」を」,などなど.(ここで記述するのは,アンフェアなので書かないが,旧知の女性研究者には,その場で愚痴った).



.......と,感じることができたのが,収穫だった一日だろうか.
(明日もあるが,ちょっと気が重い).


帰宅途中も,その「怒り」を家庭に持ち込まないための努力が必要だった.(ipodでロックを大音量でガンガン聞きながら帰宅した).

そういった一日.

午前様ではない!

活字に溺れたい(薄いことと踊る)

・・・と,表題のように思う時期だ.調査データをまとめて,ロンブンも書きたい.

流される自分に鞭(ムチ)を入れるため,忙しくてバタバタすると理解できていても,学会の発表は,「無理」をしても入れるようにしている.その無理は,期限があり,その結果としてまとめるときにたいへん重宝するからだ.

・・・というのは,「「のそのそ」「だらだら」歩くフィールドこそが,大切だ」と感じている私にとって,海外のフィールドは,訪問の度(旅)に,「発見」の連続である.その感覚で,「もうすこしすればちゃんとしたデータがとれ,よいロンブンにまとまる」・・ということは「幻想」以外の何物でもないことを,知っているからである.(理解と表現できないのは,すごい人を知っているからだろう).

そういった意味において,某修士課程の副指導教官だった先生は,「若い時に,まだ,沖縄にフィールドワークに行くといって,職場の同僚(自然科学,で工学系)に言っても,理解してくれないんだよね..」と,なげいておられたことを思い出した.

しかし,プロとして考えた場合,自省を込めて,「どんなフィールド(いろいろ制限があったり,むすがしい場所)を調査対象としても,結果を残せないものは,プロではない」と,いまさらながら,正直思う.

ただ揺らいでいる(私ではないが)のは,その結果の場と媒体だろう.あえて批判を受ける覚悟で指摘すれば,研究者の結果発表の場はっ論文である.要は,書いたものである.文章を読めば,だいたいの本人の到達点や,思考,志向は「ある程度」理解できる.(近い,領域の場合だが).

それが,結果として【専門性】に結実するのだと,ほんとうに感じている.

表面的に得られる情報や,はやりの手法で表現される「考察」は,【薄い】.

この「薄い」というのは,巷に氾濫している.

ただ,受け手にとっても,この「薄さ」と【濃さ】を見分ける見識が求められているのが,今という時代なのだと,新聞をよみつつ感じている.

(それは,情報は自らえるものだとか,あふれる情報をどう遮断するのか,などといったメディアの表現で,思考することはできようが).


「踊らされないように」とも表現できようか.



・・・そんなことを,1940年代のフランスで出版された地理学書を斜め読みつつ,午前様に妄想している.



【オチなし】

・・・・・・・・・・・その余裕なし.

思考パターンの理解

振り返ることなど,その余裕など,日常にないが,このブログもよく継続しているものだと,自己感心.

・・・こういった場を用意していただいた,某人の感謝.

・・・は,いいが.

この時期は,研究者(くどいようだが,ちゃんと研究しようと思っている人)は,研究資金申請のため超多忙な日々となる.
 ただ,こういった時期も,年間スケジュールで読め,自己のふがいないな(あくまで私)を省察するのによい時間である.

海外のフィールド対象とする研究者も,この時期は日本にいるので,連絡が取りやすい.(この意味は,搾取型海外研究者ではもちろんない.)

前提が長文となったが,この時期,このお上に出す書類ですは,「仲間」が必然的にも,結果としても必要だ.それを狭い範囲の,(なかよしこよしby修士課程の先生談)で,すませようとしている人や,そうでなく,外でよりよきものにして,共同研究をしようと思っている人の,「人物画像」が,結果として楽しい.つまり,最中は,いつまでもしんどい.

この期間でも,私にかかわっていただける方に見てもらったり,見たりの作業.

その過程で,「思考パターン」はよく理解できる.とくに,ドラフト段階で.論文は査読が入っていることや,査読論文になれた研究者の文章は,レトリックから読み込める,癖や思考が理解しづらい.

「人の文章を読むことは,結果として自己の文章の鍛練になる」という教えは,いづれの時期に師事した先生の共通した教えだった.

そのように感じながら,徹夜しつつも,意識しないで返信したり,受けることができる環境に,「ありがたい」,とつくづく思う.

本人(私)自身が,生意気だった(なので:継続),当然だと感じていたことが,共有されない事実もある.

研究は,自己の思い込みでは成立しない領域である.だが,超個人的な「行為」でもある.

この一見した矛盾は,ベッカーの著作に詳しい.(要は,緊張感ある打算なき議論の上に,研究は成立するということだ)



ここで,オチに展開しよう.

海外期間中に,野帳に書き留めたメモを読みかえると,読まねばならない本が羅列されている.その本を,勢いに任せて,ネットの古本(お金は,基本的にない)で検索して,注文し,読み始めると,本棚に・・・・,1994年購入と書いて,サインまである文庫本が,鎮座していた.

・・・あああ,またやってしまいました.

【重複購入】


100円の文庫本(古本価格)でしたが,本人にとっては,けっこうな精神的衝撃.

ただ,家人にはカード決済は秘密です.

また,午前様です.

余裕

ここでは,何度か書きなぐった記憶があるが(自分の文章など,振り返って読む気などしない.その勇気もない),やはり,研究には,「余裕」が必要だ,と思う.

そう,余裕なき状態のとき(なにから手をつけたらよいかわからない状態),学部時代の先生の著作をひらいた.こうあった.

「学問は愉快にやるのもだ・・・・」.

ほんとうに,そう思う.先生もいろいろあって,その言葉が出てきたのだと思うが,上記のように書ける勇気は,41歳の時の文章だった.

私は,まだそれまで年齢の堆積はないが・・・,そう感じる時間はある.
ただ,そういった時間は,あえて作るものだとも感じている.

先生と海外調査に行って,同室になると,4時に起床され,原稿を書き始められていた.こちらは緊張して起きることもできない・・・.そういった「生き方」を,近く見せてもらてよかったと,ほんとうに思う.

【閑話休題】

徹夜後は,通常勤務.展示の交流をされている方に,えらそうに講義.いまいち,ウケ(反応)がよくなく,一方的にしゃべると,回転しない頭が,徹夜でより回転せず,・・・・・「自爆」・・・はあ,反省.

また,徹夜でカフェインの取りすぎと,頭の時間が狂ってきている(自律神経系か)ので,開館前の展示室は暑く,汗がしたたりおち,メガネを通過して,眼に侵入し,目が痛い.

その後,単純作業,mustな事項をメモを野帳(フィールド・ノート)に移し,PCのバックアップ作業も同時に行った.その後,共同研究で研究申請させていただいている方(朝方生活)に,海外調査日程の確認電話,打ち出し資料の整理,査読の確認,海外共同研究者へのメール,などなどしていたら,会議時間.
・・・事項が決まらず,資料のない協議会議は正直つらい.

そもそも,会議が好きな人という存在が,信じられないのだ.

あえて,ここでは書き留めないが,「言いたい放題」はよくない.発言には責任がともなうことを理解したうえで,と感じた.

・・・・・と,ばたばたしていたら,もう,昼間.集中力がないので,退席し続けた休日を使い,バイクで帰宅準備.

その徹夜あけのバイクは,結構しんどい.集中しないとコントロールできにあが,その集中がスピードを生み,よろしくなく,約20キロの帰宅路をコンビニと書店で休憩しながら,慎重にかえった.
(ただ,書店に寄ったので,また本を買ってしまった.アフリカと,インド関係のもの).

・・帰宅後は,昼食をとる気力さえもなかったが,詰め込んでいたら,うるさい娘が帰宅してきた.

ここまでの記憶はあったが,気がついたら,玄関で寝ており,愚妻が仕事から帰宅してきた.

・・・・・濃密だが,すったもんだした一日.時差の克服と同じで,寝たら回復.

そして,また,自宅で仕事モード.

ああ,「余裕」は何処?

写真は,もう5年以上前に開拓した,近所の隠れ家林道.
こういった,「余裕」がほしい.

・院生時代は,よく奥多摩方面の林道つめで「ひとりキャンプをしていた」なあ,と思いだした.

完全徹夜(カンテツ)

んん・・・また,やってしまいました研究室泊「徹夜」.

効率的ではないのでしょうが,みんなで研究資金を獲得しようとがんばっているので,刺激になる.

夏休みの宿題の「追い込み」の状態である.

ただ,こうった濃密な時間に,結果として「力」がつくのだと,すこし歳をとって思うようになった.

博論も修論もだ.

少々落ち着いて,また作業開始としよう.

追い込まれていたのも正直だが,この雨の中,疲弊していてバイクで帰るのは,あまりにも危険だと感じたからでもある.

では,今日もがんばろう!(気合い).

午前様の【陸の孤島】の研究室

ああ,今日も午前様.

それも,院生じゃあるまいし,研究室.

いまだ,書類にまみれています.

今度生まれ変われるなら,脳みそがよく回転するニンゲンに・・・


こんなこと書いている間に仕事しろ!との批判を受けるでしょう

が,・・・・そう,思うのですが.


でも,博士論文や修士論文を書いていたころを思い出してしまいます.
どちらも,年明けがデッドラインで,研究室などで,紅白と初日の出を拝んだ,記憶が・・・・・・・(自慢できることじゃありません).


「雨は,まだ降っています」「まだ,やみそうにありません」(沢木耕太朗風・・・・)

まだ「「私」の仕事も終わりそうにありません」(私の今)


さあ,戻りましょう!

恒例行事と志

この時期は,研究者(といっても,ちゃんと研究しようという意志と志のあるひと(ちょっとトゲがありますが・・・・・))にとって,書類にまみれる時期.毎年,毎年.

そう,「カケンヒ」.科学研究費補助金というもの.


ノーベル賞の日本人受賞で,基礎研究の重要性が,マスコミ(私にとってのマスコミは,M新聞)で取り上げられ,応用,つまり,すぐに役に立つ,すぐに結果が出せる研究に資金が集中する,ような論旨の文章がおどる.

まあ,そうだろうが,フィールドでの感覚を重視して,そこに住み続けるひとにとって(役に立ちたい),と考える,輩(私も,その仲間に入れても恣意)にとって,ちょっとズレた展開だとも感じる.

結論として,お金や機材などそうかからないが,フィールドでの感覚と問題発見することに喜びを感じる,研究者の成果や振る舞いにも,もっと焦点があたってもよいのでは,と感じた次第だ.


確かに,遊びでない,プロとして,いや,職業研究者として行う研究は,「仕事」(=それで,給料がもらえること)なので,研究資金は必要である.ありあまるお金に恵まれたことはないが,先に研究代表者としていただいた(あたると思っていなかったが)カケンヒは,結果として「可能性」と「人脈」を広げてくれ,大いに感謝している.


「税金」である.その税金を使っての研究効果というと,私がいうのもあれだが,「心許ない」(あくまで,私は,のだが).もっとも,研究者としての義務である研究発表や論文での公表以外のことだ.


「心許ない」というのは,「どうしようのない現実」におかれている,フィールドとしている途上国の現実への,・・・だ.ちょっと,これも色眼鏡はあり,そこに住む人は,そこでの楽しみも生き方もあるし,旅行者の私には,理解できないことの方が多い.


「若い」といわれそうだが,その感性は大事にしたいと,つくづく思う.(もっと,トゲのある表現をすると,そうでない【搾取型】(この表現は,著名な東南アジア研究者が用いていたことを最近知って,驚いた),の人「も」いる人だ.【そう,振る舞うことはできるということだろう.たぶん.私にはできそうもないが,観察していて,軽薄にも,もっと毒をはくと,「かわいそう」にも感じる.】


注1)もちろん,そうでない尊敬すべき研究者が,私に関わってくれていて,おおいなる励みにもある.


【閑話休題】にしよう.ちょっと,デスクワークで,ストレスが堆積しまくっている.


数日前の,カケンヒの打ち合わせ後,帰宅途中,某,古都の国立大学近くの私鉄駅で,いそがしそうにPCを持ちながら電車を移動するIP何とか細胞のY先生を見た.

・・・注目もされ,お金も,結果として人も集中する研究者も,たいへんだと,その人の背中を,横目でみながら感じた.


要は,「生き方」で説明できることなんだとも思う.


人気の,「愚妻」ネタは,しばし封印注(中)です.



注1)の志高い研究者のあつまるプロジェクトは,下記Webで紹介されています.ぜひ,応援頂きたいし,この場でも,情報を発信してゆきたいと思っています.心地よい,空間と時間で,研究者を志したときの,思い(=私のいう青春)が,よみがえってくる.


地球研「高所プロジェクト」Web
http://www.chikyu.ac.jp/high-altitude/index.html

深夜のうれしいこと

ここ数日,ほんとうの秋を感じ,Kawasakiの私の二輪での通勤は,とても楽しく,気分転換になる.また,この約40分は,独りになれる貴重な時間でもある.


この秋の晴天のなか,休日のいうこともあり,博物館は親子連れでにぎわう.

・・なのに,フィールド・ワーク日よりだというのに,研究室で,PCまえに悶々と・・・.

なんだかなあ.と.

夜帰宅し,疲弊しきって食欲のないまま,食事を書き込んでも,まだ,回らない頭は興奮している.

そんななか,PCの調子が悪く,あきらめ,ネットでもと思った瞬間,長崎のエチオピアの研究者から,うれしいメールを受けた.

睡魔から興奮へ.

「ありがたいなあ」,と思いました.

ほんとうに,たまたま大学院が今はなき(本当に,怒っていますが)東京都立大学同士でもあり(専門や学部もまったく違うのですが,かさなる時間はあたのだと思います),親近感を抱いていました.また,年齢も近く,アフリカ研究者の「近さ」もあり,親しくさせて頂きました.

こういった局面に出会えるのも,「アフリカ」の現実を見ている仲間で,共有できる【何か】を感じざるを得ません.

山を愛する人は,ロマンティズムを公言しますが,でも,すがすがしさと,志を感じることができ,上記に通じます.

今日届いた,高所でのフィールド医学を開拓した方の著作が届きましたが,ほんとうによい一冊で,若い人にぜひ読んでもらいたいと感じました.

また紹介したいと思います.

よい,深夜の出来事で,あたたかい気持ちになりました.

多謝です.

追伸
インドやバングラのフィールドをともにさせていただいている方からは,的確な方法論と解釈への批判も受けました.
これも,ほんとうにありがたいです.

・・・ということで,今日も午前様となりました.(オチ).

共有できる規範と想い

大学院生時代に,山の地形を研究している先生の研究室にいた.先生は,根っからの,子ども(お子様)にあこがれの山の名前をつけるような先生で,先生を理解するために,新田次郎など,山岳小説を,博士課程の初期にむさぼり読んだ.

たまたま,そのときにネパール・ヒマラヤに行ってみないかとの話をいただいた.もちろん,即答で「行きます」と.

学部学生時代から,今西などの京都学派の著作を熟読し,「ヒマラヤ」という言葉に「憧憬」(本多勝一的表現)にとって(私),まずは,いってみたいという,【あこがれだった】.

・・よく,歩いた.その顛末のいったんは,『ヒマラヤの環境誌』(八坂書房)という優れた共同研究で,表現されている.


が,私にとっては,自己を形成する多感な時期に,「野放し状態」で,ヒマラヤを歩かせてもらた経験は,かしこく表現すると,「原体験」である.


いま,その想いがより鮮明になってきている.

見えなかった物(地理学的には,景観や,動き)が,アジアを歩いていて目にとまり,受け入れるようになった.


共有できる【仲間】と出会える幸せと,そうではない,「薄いヒト」との違いを,年代層を軸に考えた.


出逢いを呼び込むのも,自己の縁と実力,人徳だろうが,その意味が,「志の高い人々」と接することができ,分かり,消化できるようになったってきた.


要は,打算的でない生き方かもしれないし,結果として,いや必然だろうが,打算でない人に信頼と,「仲間」が集積する.


そう,つくづく感じた一日.寂しさも感じた.

「ウスサ」に関して.

恵まれているとも・・・・・・
(オチナシ)



想い出

「地を這う」フィールド・ワークを信条という私にとって,このタイトルは意外だ.

そう感じるのは,最近のすさまじい刺激と,出張後の各種締切で,「追い込まれているという焦り」が,そうさせていた,のだろう.また,鼻炎から来る体調不良(微熱)が,追い打ちをかけていた.

・・・そう,眠れない深夜に,睡眠薬をのみつつ感じた.

こういったことは,海外のフィールドの前のあわただしい時期や,一時帰国時,フィールドにはいったときに,こういった症状で,通常働かない脳が興奮状態になる(笑).


・・・という訳で,昨日は仕事する予定であせって詰め込んでいた知識,そして荷物をあきらめ,家事(洗濯,食事の準備,子供の迎え,送りなどなど)や,買い物を兼ねた30分程度のバイク乗りで,あえて【考えない時間】を作った.
その中でも,とくに至福の時間だったのは,僅か一時間程度の「活字に溺れる時間(新聞,たまった雑誌,山のような学術本,文庫)だった.

こういった時間も,お金はないが,あえて創るにも,必要だと感じた.

とくに,某研究所でのプロジェクトの研究打ち合わせでは,私の自己形成を行ったネパール・ヒマラヤでお世話になった方々中心メンバーが子られれおり,また若い志高い研究者との会話や研究発表で,次のエッセイを思い出して,ロマンティズムに沈殿した.


それは,

吉田直哉(著)「ネパールのビール」である.現在でも,文庫でも入手できるので有名なエッセイだろう.
心が疲弊しているときに,この秀逸な活字を追ってゆくと,次第に,私の20代のはじめてのヒマラヤの青春が思い出され,ウルウルとなってくる.

つまり,多感な時期をこの地(厳密には同じ地域をフィールドにしていないが)ですごした「経験」が,この文章だけで,蘇ってくるのだ.

月並みなコトバで表現と,今の流行語で表現すると,「癒し」だが,私にとって,たぶん一生大切な「活字」である.

フィールドでは,可能な限り情報を得ようと,自称,「ハイエナ フィールド・ワーク」(いやしいとも表現しますが)をしますが,これを読むと,すこし,優しくなれる自分を実感することができます.
それと,沢木耕太郎の文庫は,つねに旅に持参します.


まったく,しょうもないことを書いてしまう自分も自分だと,添付写真の好きな絵を見ながら「妄想」してしまいます.
この実際の絵を見たのは,学部4回生の時ですが,ほんとうに迫力があり,圧倒され,そして疲弊しました.

結論
某先生に学部四回生の秋,シリアのアパーメア遺跡で指摘されたことですが,「若い時の感受性は一生ものだ」.「できるだけ若い時に出ろ.そして本物を見ろ」.

ほんとうに,そう感じています.
インドのカルカッタ(コルカタ)では,若いバックパッカーが少なくなってきていることを感じます.若い人は,何で悩んでいるのだろうか,と.

・・・・・・んんんん.いまいちオチに乏しいが,歳のせいだろうか.