気分はポレポレ

よい天気で,バイク通勤も心地よいので,遠回りして気分転換.でも,吹けが悪い.


あえて集中して取り組んだ結果,第一関門は突破し,また各種学会誌や頭の整理ができて,気分はよい.

明日からはアフリカ研究の合宿があり,楽しみである.つまり,それに合わせて仕事を時間を区切って処理したので,結果として処理できた.

ただ,研究は「処理」ではない.


閑話休題.

海外でフィールドを行っている研究者は独自の空気をもつ.とくに,土着型のフィールドを途上国で行っている研究者は直面する現実が研究対象の目前にせまり,「切実さ」を感じるし,観ている世界も違う.

研究者としての善悪は別として,そういった人の志は,心地よいし,刺激的である.また,流れも違う.

ただし,「日本に適応できない個性」をもつ人が多いのも事実で,それも楽しい.

というように,今日は集中して取り組んだ.

明日の道中も仕事ができる.

「春雷」の経験

というタイトルの小説を,大学学部時代読んだ記憶がある.

しかし,以下は全く関係ない内容.

ここ数日はいろいろ「履歴」について考えさせられることが多く,少々,「忘れてしまいたい・・・」と酩酊する日々.
抽象度をあげると,自己を説明させる理屈を思考しているということかもしれない

という少々,気が重い(めいる)オジサンの気持ちだったが,春雷と初夏の日差しのなか,健康的な休日だった.

明るく転換!(したい.根は暗いのである(告白))

大学院の1年目に初めて熱帯アフリカの数カ国とフランスを訪れる機会があった.帰国途中の南フランスのある街の研究者に,つたない英語でこう質問した.

「なぜ,研究しているのですか?」

(あたりまえのような表情で)

「楽しむためだ!」

憧れの大地,アフリカに立ったあとの高揚感と緊張感は,このコトバですこし薄らいだ.
結果として,旅を楽しむ術をすこしは覚えたのだ.

そのはじめてのアフリカ旅から約10年.

「アフリカの水を一度飲むと,また帰ってくる(忘れられなくなる)」

を地で行っている自分である.


「どこの国が一番印象に残っていますか?」という問い.
私にとっては愚問である.

「どこも印象的であると表現できる感性と感受性を維持することこと,緊張感の持続である」.

つまり,印象にのこっていないことは自己の感受性の欠如である.


・・・・・妄想の初夏!である.


旅にでると,当り前の日本が実はそうではない事実を再発見できる.

簡単にいえば,「相対化」なんだが,コトバで表現すると陳腐にもなる.

難しいなあ,コトバは・・・・・・

ハマショー「論」と活字

趣味の話は延々と継続する

ので,

告白しよう!

私は,「ハマショウ」オタクである.

なぜか.
ん・・・・自己を説明するのは難しい.


まあ,俗っぽく表現すると,時代と経験を意識した「プロの歌い手」として私が観ているからだろうか.

「彼」(私などに彼呼ばわりされたくないでしょうが)」と自己を照射できる人物であることと(共通性の認識)かな.

同じ(同じ土俵にものっていません(笑),表現するものとして,活字の力を信じていると感じさせてくれるのが,素直な本音だろう.

そう,コトバは力だ!.

月並みですが,「本を読むことは他人の頭で思考する」ことの大切さと重要さ,さらにはその価値と余裕を大切にしてほしいと感じている.

人は,「一冊の本で人生が決定されるし,変わる.変われる力がある」

その根拠.


私が「実証」しています.

バイクのキモチ

バイクは馬

これは,バイク乗りでは使い古されたコトバ.

バイク論を語りだすと,時を超越する.

「風」

・・・じゃない.

乗っている時だけでもない満足感がある.それは,生き物を飼っている感覚と同じかもしれないと,近所の小学生が犬の散歩を毎朝一生懸命におこなっているのを観察していて「ひらめいた」.

バイクも同じだ.
マシン自体の機能進化は,素人が把握できるレベルで,全体像がつかめる.

いっぽうクルマは?

ある中学時代の社会科の教諭は,伝統的な(笑)学生運動あがり.その人が,車=狂馬と表現していたことを覚えている.

そういった意味において,バイクは乗り手も選ぶし,バイク自身も生き物のように変化する.

言いたいことは・・・・

私のK社製のバイク.調子悪いんです!

でも,手のかかる子ほどかわいいのも単車なのです.

結論
単車がコケなくなると,バイクではなくなる

カツジ中毒とその力

「私,テレビ見ません」

という駄文を以前書いた.

裏返って,「告白」すると,「活字中毒」なのです.

文字を目で追っていることが,一番リラックスできる時間.

その要因はどれか?

1.長い学生時代,貧乏で本が買えなかった反動(いまでも裕福とは言い難いが)
2.文学部出身だったから(文学部出身というのは話のネタにしている)
3.学生時代,テレビがなかったから(一時期はオサガリあったが,あえてその詳細は「公表」しない)

たぶん,全部.(長い学生時代の一人暮らしは,食事中も活字が安定剤だったし,いまも寝る前も含めて継続中?)

というのは一部ホントだが,「活字の力」を信じていると言いたい.

今日,衝動買いした数冊と学会発表のために勉強のため,家族の「パシリ」中の待ち時間に斜め読みと,晴天のなかで英語論文が読めてすこし満足.

研究のことはあえて書かないが,昔から好きな書き手は何人か持っている.そのなかでも,中断はあるが,続いてしているの「沢木耕太郎」.オタクのように,評論まがいの文章はかけるが,のめりこみやすい性格によって,ほぼ彼の作品は戸棚に揃っている.

なぜか

「感性」に共感するということが,のめりこむ理由だが,文体の美しさは言うまでもない.
(これ以上は,敢えて「趣味」なので書かない)

また,さいきん注目しているのは「山田深夜」という作家.
彼のWEBも楽しい.オチがあるのも関西人としてうれしいし,経験が文体に表現されているのがいい.今後,歳を重ねるごとに(経験の蓄積),どう彼の作風が変化していくのかも見守る楽しさもある.

しかし,研究室も自宅も本の山脈が形成されている.

減ることのないこの山.

いったいだれがどうするのでしょうか?
書き込みある本.リサイクルもできないジャン!

作法

どんな対象でも継続するのは緊張感が必要である.

どのような職業でも遊びでもいいと思う.
「たのしく」感じるまでは,一定の修業期間が必要だろう.

この修行の期間は,作法を学ぶ期間なのかもしれないし,もちろんマニュアル化できない.またマニュアルで表現できるような陳腐なものでもないだろう.

出典は忘却したが,ある楽器職人を養成する徒弟制度の文章を読んで,感銘を受けた記憶が蘇ってきた.

「表現」するということ.

東京の郊外でビンボウ院生時代をおくっていたアパートには,芸術を専攻する他大学の院生が階下にいた.毎夜,製作の音(鉄の彫刻)がした.
苦情のためドンドンすると,それをきっかけとして仲良くなり,研究とゲイジュツの共通性を認識できるような飲み友達になった.(バイク好きだったというのもあるが).

彼も今,若手何とか賞をもらったとか,個展をひらいたとかの案内を,忘れたころによこしてくる.

それは会わなくても「刺激」になる.

かれも修行の期間だったが,「変人」だった.

でも,海外調査中にバイクを貸していたら,ナンバープレートはなくすし,技術を活かして勝手に改造するのには閉口した.

彼の指摘するところの「ゲイジュツ」だったのだが・・・・

三つ子のタマシイ

自分の日々の行動や発言について「落ち込む」瞬間がある.
しかし,
自分がなぜ上記の行動をするのか自分に説明を求める余裕もある.


研究をなぜ始めてこれまで続けてこれたのか?(そんなトシでもないが).

結論

「人との出逢い」である.

小学生から高校生にかけては考古学にたいへん興味があり,田舎の情報がすくない環境にあって,近所の古墳や寺院跡をひとりで自転車で探検に行っては,遺物採集や発掘もどきを行っていた.大学の学部学生のころは,「とうぜん」の様に授業などにはでず,他の研究所や発掘のアルバイトに精を出していた.

そのころ尊敬し,いまも厳しいある先生が「三つ子の魂・・」という短文を発表された.
先生には一冊の著作に感銘をうけ,先輩のつてで押しかけの弟子入りだった.先生の文章はむさぼり読んだ.また学部学生時代にある中東地域の海外調査につれていってくださった.

それが私にとっての「三つ子」である.

先生はよくお茶をのみながらこう話されていた.

「何事も書け」
また
「若いときの感受性が豊かなときほど海外に出ろ!」
と.

すべてをかみ砕いて「理解」できているとは自分でも思えないが,その意味が少しの経験から理解できるオトシにはなってきた.

また先輩も大きい.
先輩方々は今の頭が上がらないし,厳しく接していただけているし,一緒に仕事ができる幸せも経験できている.また友人や後輩も同じ.

そういった経験はインターネットも携帯電話もなかった時代だが,過去ではない.

オチはないが,志(こころざし)をキーワードに自分の経験で妄想していると,そんな「体験」は大切だなあとニヤニヤしながら考えている.

おしまい

Fine Day?

よい一日だったといえるようにしたい.というか,すべき.

抽象度をあげると,人の思考は「行ったり来たり」.

金曜日は,会議が集中する時間.よって,結果としてストレスも蓄積する.しかし,より良き環境を構築しようとする議論は,善意的かつ積極的で,刺激的である.

でもね,そうじゃないと.・・・・・・・・・・・・・・

このブログも「酩酊日記」にかえようかしら?と思う瞬間が多い.

きょう,韓国にご同行いただいた研究者からある新聞記事をいただいた.
旅の途中もずっと思考していたのだが,結論は出ない.

ただし,「歴史どどう描き,また画くのかも「個人」の資質である」と思う.

よくよく考えると,個人が問われている時代なのだ.と思う.いや,思いたい.それが「成熟」につながればいい.

ただし,人間は過去に(自覚せずとも)コントロールされているのだと,ジュクドク中のアジアのルポタージュと,アフリカを題材とした小説を同時に読んでいて,感じている.

結論

「人への信頼」が大事な社会は,「美しい」.

私も,初心に忠実に「美しく」生きる.

キュウジツの過ごし方

今日は,帰国以来初の休日.

でも,仕事が頭から離れないので,3時ごろ寝たのに早朝に目覚めた.あ~マジメ.

午前中は怒涛のように押し寄せてくるメールの打ち出しの整理と,会議の計画や,入金,出張報告書作成,学会発表要旨の作成計画と,論文整理,さらにはゴールデンウィーク中の研究会出張のチケットの手配などなど...家人はピアノのお稽古.
しかし,
駅からバイクで帰る途中,世の中は桜が散り始めている.隠れ場の桜の名所でも散り始めていた・・・・韓国は満開でした(すこし,ロマンチック)

でも,駅前にでて,書店に立ち寄ると,「活字中毒」のわたしは,買い込んでしまう.復刻されて名著などや,探していた本に出逢ってシアワセだったなあ.
(単に,学生時代超ビンボーだったので,その反動だと家人は解釈しているようだ)

でも,机上と机下に高所と化している本はいつ読まれるのだろうか?かわいそうに.
行間の味わいやページのめくりは,アナログおじさんのストレス発散なのです.

今日は,ランボーの詩を読んで,すこし元気になったような「気」が・・・

そのクニの姿

わからない.

長期に滞在しても,短期でもガイコクはわからないことだらけ.

もちろん,一端しか見ていないし,見ることはできない.

韓国もそうだろう.

ただし濃密な時間をおくり,思考やその実験に時間をさくことができるのは,とても
貴重なひと時である.

垣間見ることで,文章で表現できることの幸せを感じている.

また明日も長い一日が始まるだろう.